北九ツウ 鈴木商店の栄華と近代化遺産をめぐる ~門司・大里~ 鈴木商店の栄華と近代化遺産をめぐる ~門司・大里~

北九州の通なハナシ「北九ツウ -KITAQTSU-」鈴木商店の栄華と近代化遺産をめぐる ~門司・大里~

渋沢栄一と北九州
~北九州との関わりとは~

Guide 市原猛志さん

日比野利信さん
北九州市立自然史・歴史博物館歴史課長
学芸員(近現代史担当)

市原猛志さん

日比野利信さん
北九州市立自然史・歴史博物館歴史課長
学芸員(近現代史担当)

北九州との深い関わり

渋沢栄一肖像画

渋沢栄一

「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一(1840—1931)は北九州とも深い関わりがありました。かつて横浜・神戸に次ぐ国際貿易港だった門司港の発展は、明治22(1889)年の特別輸出港指定と門司築港会社による築港工事、具体的には現在の大阪商船と門司税関の間に広がっていた塩田の埋め立てに始まりました。渋沢は門司築港会社の大株主として、設立の際から深く関わりました。そのほかにも渋沢は若松築港(現在の若築建設株式会社)、九州鉄道(現在のJR鹿児島本線)、筑豊興業鉄道(現在のJR筑豊本線)の大株主でした。いずれも筑豊の石炭輸送に関わって、門司築港と同じ時期に設立された会社です。

若松築港では明治23(1890)年の恐慌によって株式募集が困難となった後、同25年の会社再建に協力し、三菱の荘田平五郎とともに相談役に就任して、37年まで務めました。この間、明治31(1898)年から実施された第1次拡張工事にも協力しました。九州鉄道では明治32~33年に経営紛争が起こりましたが、渋沢は仙石貢社長や安川敬一郎などの経営陣に協力して、高配当を求める反対派の調停に尽力しました。筑豊興業鉄道では明治23年恐慌の際に募集された社債を三菱とともに引き受け、相談役に就任して、30年の九州鉄道との合併まで務めました。

大正時代に入り、第一次世界大戦が始まると、官営製鐵所だけでなく民間でも製鉄会社が設立されます。渋沢もその中心にあり、大正6(1917)年に戸畑に建設された東洋製鐵の準備委員や発起人会座長を務めました。さらに大正8年に安川が設立した日中合弁企業の九州製鋼では大株主となって協力しました。東洋製鉄は大正10年、九州製鋼は昭和3(1928)年に官営製鐵所に経営を委託し、同9年に製鐵所が民営化されて日本製鐵が成立した際に、同社に合併されました。

北九州では筑豊の石炭輸送を軸に基盤整備が進められ、それを前提として明治34(1901)年に官営製鐵所が八幡に建設されたことを機に急速に発展していきました。渋沢はこのような「石炭と鉄がつくった工業都市」北九州の産業発展に深く関わり、特にその基盤整備の面で重要な役割を果たしたのです。まずは資金面での協力です。地方から見れば、地元資本だけでは資金が足らず、渋沢のような中央資本に頼ったと言えます。渋沢など中央から見れば、地方で成長が期待できる事業に投資したと言えるでしょう。経営面に関与して調整役としての役割を果たすこともありました。北九州の産業発展には中央資本の参加が不可欠だったのです。

渋沢が中央代表だとすれば、地元代表が安川敬一郎です。当初資金力に乏しかった安川ですが、明治27(1894)年の日清戦争による石炭需要の増大により炭鉱経営を発展させて、10年後の日露戦争後には中央資本と並び立つ存在となりました。北九州市立自然史・歴史博物館が所蔵する『安川敬一郎日記』(第4巻まで刊行)を見ますと、北九州と東京・大坂の間を「東奔西走」するのが常であった安川は東京滞在の際には折々で渋沢に会って、様々な相談をおこなっています。

洞海湾風景 現在の洞海湾
  • ● 【上】洞海湾風景
  • ● 【下】現在の洞海湾

安川敬一郎に宛てた渋沢栄一の手紙

渋沢栄一書簡 渋沢栄一書簡

北九州を代表する企業家と言うべき安川敬一郎の関係資料のなかに、渋沢栄一が安川に宛てた手紙が10通残されています。二人の親密な関係を考えれば当然かもしれませんが、実は10通の手紙は明治29(1896)年4月20日から明治30年2月14日までの10ヶ月の間に集中しています。別に二人はこの時期だけ親密であったわけではありません。電話もファックスもメールもない時代に、手紙は最も重要なコミュニケーション手段ですから、たまたまこの時期の手紙が残されただけかもしれません。しかしこの時期の二人が親密な交流を持っていたことも確かです。

安川敬一郎宛渋沢栄一書簡10通 安川敬一郎 肖像画
  • ● 【上】安川敬一郎宛渋沢栄一書簡10通
  • ● 【下】安川敬一郎 肖像画

明治29年と言えば日清戦争が終わった翌年で、官営製鐵所の建設地が八幡に決定した年です。その頃に渋沢が安川に宛てた手紙は若松築港と筑豊興業鉄道の二つの会社の経営に関わる内容が中心です。最も古い明治29年4月20日付の手紙では、渋沢は安川に若松築港株式会社の重役人事について、「賢台に於ては是非とも取締役に御任じ成され、会長席御引受下され候外之れなくと存候」と安川に取締役会長就任を求めています。安川は会長就任を固辞していたようですが、渋沢が安川の説得に当たっているわけです。株主総会は4月27日におこなわれ、安川が会長に就任しました。次の4月30日付の手紙では、渋沢は「築港会社の株主総会は都合よく相済候…先以安心仕候」と記しています。渋沢の説得もあって安川は会長を引き受けたと言えます。渋沢が背中を押したと言えましょう。

そのころ、筑豊興業鉄道株式会社の重役人事も懸案でした。渋沢と三菱の「大番頭」と呼ばれた荘田平五郎と二人はともに若松築港と筑豊興業鉄道の相談役を務め、大株主でもありました。渋沢は三菱の総帥である岩崎久弥や荘田など関係者と相談しながら、経営の方針や重役の人事にも積極的に関わったようです。単なる大株主ではなかったわけです。

興味深いのは、渋沢が「博多湾築港の義に付ては…中々油断ならさる模様」だが「此程三菱にて久弥氏とも相談仕候得共、若松港又は興業鉄道の為別に工夫之れなく」(明治29年4月20日付)、「博多湾築港の問題は…別に工夫も之れなく、先ず其の成行を見候外なき事に御座候、但若松港にも大関係も之れあり候間、常々実地に就いて御注意下され度候」(同年4月30日付)と述べていることです。ここでの「博多湾築港」は明治29年に設立された「博多築港株式会社」のことです。博多港が整備され、鉄道が整備されれば、筑豊の石炭が博多港に運ばれることになって、若松築港や筑豊興業鉄道の経営に大きな影響を与えます。それは両社の大株主で、経営にも積極的に関わっている渋沢にとっても大きな懸念材料でした。実際に博多築港は実施されますが、港湾としての飛躍的発展には至らず、博多築港は福岡市の悲願として後に引き継がれていきます。渋沢の心配は杞憂に終わったわけですが、逆に言えば、日清戦後というこの時期の北九州の工業都市・港湾都市としての発展は、未だ途上にあったことを示しています。

また4月30日付の手紙のなかで、渋沢はこの時代の社会の雰囲気について、「兎角今日之人情ニハ定在此れなきに付、昨非今是と確定之れなく」「敵か味方か妨害か助力か、朝夕変化常ならずと申姿」と見ていて、「文明ハ進歩致候程斯の如く複雑熱閙なるものニ候ハヽ余り進歩も好まず…」と嘆息しています。渋沢は安川に愚痴をこぼしているのです。渋沢と安川はともに武士出身の企業家ですから、お互い共感するところが少なくなかったかもしれません。渋沢には有名な『論語と算盤』という著書がありますが、安川も自らが資金援助した筑紫史談会(郷土史団体)の会誌『筑紫史談』に「論語漫筆」を連載しています(安川が亡くなったあと二男の松本健次郎が刊行した『撫松余韻』に収録されています)。論語好きという点でも二人は同様でした。(北九州市立自然史・歴史博物館 日比野 利信)

安川敬一郎 肖像画
  • ● 現在の門司港